昭和33年の東京駅の東海道線の時刻表(こちら)

追記:ここで取り上げられているダイヤは昭和33年10月1日改正分。
この時点ではやっと、大阪までの「こだま」が当時最新鋭車(冷暖房完備)で所謂新性能電車の151系電車(当時はモハ20系電車。程無くして151系に改番された)になったばかり、7時と16時にあった。神戸まで6時間50分。
あさかぜも当時最新鋭の20系寝台客車になったばかり。
この時点ではつばめやはとは展望車がついていた旧型客車特急だった。

電車列車はあとはこの時刻表に載っていない横須賀線の70系と、沼津までの80系普通列車のみ(ちなみに平塚までの列車はここには掲載されていないし、70系80系はつりかけ式の旧性能電車)で2ドアデッキつきで朝の通勤ラッシュには対応できなくて、新性能化も含めて3ドア化は113系まで待たなければならなかった。



沼津以遠は優等列車含め機関車牽引の客車列車が当たり前な時代。
こだま以外の優等列車はEF58辺りが牽引する旧型客車主体の客車列車。
当然一部の一等寝台車か食堂車にしか冷房がない。

優等列車が客車列車主体&列車線(東海道本線の本線。東京から横浜まで)が電車と機関車牽引列車混在なので加速度がわるい列車が多く、もうそれ自体が増発のネックになっていた。


そして、今と違って夜行列車が普通から特急まである時代で貨物列車も含めて東海道本線が物理的に休まる時が小田原から静岡県を経て滋賀県までの人口閑散区間でも無かった(故に線路の保守とそのコストも今以上に大変だったようだ。当該区間は地元の人や庶民が乗る普通列車が当時一時間〜二時間に一本レベルで正直不便だった、にも係わらず)

そこに高度経済成長による都市間輸送&都市近郊輸送が一度にどっと客足が伸びて限界に達した(朝ラッシュ時だと昔は300%という、圧死寸前のレベルが首都圏では当たり前になっていた)ので東海道本線を「根本的に複線化する」という目的もあって東海道新幹線が作られるようになったのだ。
無論、それでも足りなさ過ぎるので通勤五方面作戦の一環として、東京口で大船まで一緒に走っていた横須賀線を分離させることを最終的には行った。

貨物は小田原から都心側は東海道貨物線がつくられたし、横浜から都心側は緩行線たる所謂京浜東北線がすでに出来ていたのだが・・・・